犯罪を犯す人間は偏差値にも成績にも表れないんで、オイラは昔から偏差値や成績で人を判断しないことにしている。
一般的な言葉を使えば「人間性」という部分に評価を持っているのだけど。
これを定義するのは難しい。
「性根」(しょうね)と言っていいのだけど。
「やる気、根気、死ぬ気でやった事のあるヤツはなんか違う」と思ってる。
よく「死にかけたら人生観変わった」とか言うのもそれ。
案外人はコロッと死ぬし、なかなかくたばらない。
そういう人間の持つ業や生命力って事を自覚すると、人を見る目、世の中を見る目は変わる。
人の生死にかかわる仕事をしてる人が、世間の人と捉え方が違うのもたぶんそこだろうな。
よく憎しみを込めて「死ねばいいのに」というけれど。
「人は誰しも、いずれ死ぬし、お前もいずれ死ぬ運命」だと僕は思う。
だから、腹が立っても「死ね」とは言わない。
そんなことを言ってたのは子供の時だけだ。
人はほっときゃ必ず死ぬでな。
楽に生きようと、苦労を重ねようと、努力しようと、結果を出そうと、いずれその時はやって来る。
ただな。
俺の中にあるのは、死んだとき「無力だけど、ここまではやった」と言えるか?ただそれだけで生きてた。
これも何度も言ってきたことだけど「言うべき時に言って、やるべき時にやった」と。
その結果が最悪だったとしても、やることだけはやったと胸を張って言える。
親とも戦った、学校の先生とも戦った、会社の上司とも戦った。
それは「自分の身は自分で守る」って事を自分の人生を通じて会得したからだ。
いくら仲良くやろうとしても、まったく接点の無い人からの誹謗中傷は止まらない。
そういう同級生や同僚とも戦った。
ただ、社会に出て感じたのは、「正しい」と思う事を信念を持ってやってると、必ず誰かが見てるし、誰かが味方になってくれるってことだった。
社会で必要とされるのは、やっぱり「出来る人、やれる人、やり切る人」に絞られてくる。
中途半端な人間ほど、扱いにくいものはないよ。
けれど、一つ忠告するならば、疲れた時、怪我した時、病気をした時は撤退しろ。
そして、休め。
体制を整えて、再び戦うために。
たぶん、僕はもう少ししたらこの世からいなくなる。
止まらない進行形の病気だからだ。
死んだあと、次の人生があるのか?わからないが、少なくとも、もし次があるなら、それまでの休暇と思うことにする。
この人生、本当にしんどかった。
何度も作った人との関係、作ったもの、すべて後ろからぶち壊す人らが出て来る人生だった。
賽の河原のような人生だったけど。
「これ以上どうしろっちゅうねや!」と言える。
いくら自分が不幸だと感じていても、他人を巻き込む理由は一切無い。
一人で静かに死ぬことも出来な奴は弱虫だ。
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