2023年4月2日日曜日

入院、手術を終えて。。。

 ホントに死ぬつもりで、入院してて。

実際、死ぬ一歩手前だったわけだが。

なんで、あのギリギリで引き返したのか?と日々悩むことがある。

そして、「あの選択は、本当に間違ってなかったのか?」という自問自答が残っている。

僕の心情としては「流された、説得された」という感じで、自分の意志で決定しているとは素直に思えない。

ほぼ極限状態での意思決定だったことも要因だろう。

で、あの時何があったか?というと。

一つは死ぬ決心してたのに、なぜか?肺の水が抜けて、はしごを外された心境だったこと。

そして、病院、友人らから、ほぼ毎日「透析しんさい」「楽になるよ」「まだ若いんだから」とずっと営業のようにささやかれたこと。

トドメは肺の水が抜けて「ほら見てみ、まだ死ぬなという事よ」と言われたことだ。

そして、医師から透析を勧められ、半ばヤケクソに「だったら、全身麻酔ならしてやる」と言ったことだ。

実際、全身麻酔を希望してて「できません」と言われてたので「出来ないなら、僕も出来ません」という事で、透析をしない選択をしてたわけだ。

ここから状況や考えがコロコロと変わる。

医療方針や手術の選択肢、そしてそれらを個別に説明を受けて、半分、何が何だか、よくわからない状態に陥った。

そうして、出された選択は、首にジョイントを入れる手術(最短で1か月、長くても半年しか使えない)。

左腕に人工血管を入れる(どのくらい使えるかは不明)

右手にシャントを作る(これもどのくらい持つか不明)

なわけだ。

結局「遅いか?早いか?の違いでしかない」というのが、僕の答えなわけだが。

そこに「透析しない」という選択肢は、いつの間にか除外されていた。

除外したもう一つの考えなのは、「もうこれまでのように、販売の仕事がしたいとか、店を持ちたいだとか、そういうことは全部諦めよう、そして、これからは、ただ、遊ぶだけという人生に切り替えよう」というベクトルだった。

以前の自分のベクトルだと、どう考えても、その先は無いわけで。

どう転んでも、死という選択肢しか残らないのよ。

だから、根本的に自分という概念を丸ごと取り換えたと言っていい。

そうして、3/3に僕は緊急避難的に首から透析を始めた。

この時、以前の僕は死んだと思っている。

あれからひと月近いが、ずっと僕は以前の自分と違うと認識している。

昨日部屋に戻って来て、友人らに依頼した私物(金目の物)をすべて引き取ってもらってて、空っぽの部屋にいて、不思議と以前の自分と違う立ち位置だと感じた。

前は、ゲームソフトに囲まれて、自分の思い出に囲まれて、そういう安心感があったのだけど。

今は、まったくの0というスタートラインに立っている感じがする。

自分の部屋に戻って来たのに、戻って来た感じがしない。

やはり、以前の僕は死んだんだと思う。

これからの僕は怠惰に生きるかもしれない。

人格も性格も変わるかもしれない。

たぶん、そうじゃないと、僕は生きて行けない。

律儀に心に決めた事をやり遂げるような性格では生きられない。

たぶん、そう長くは生きられないと思うが、この2か月で得た教訓は自分の意志で人生を決めれない、そして死を自分で選ぶことも出来ないということだった。

これからの人生は神の手のような、僕の意志とは別のベクトルに身を委ねて生きるしか無いように思う。

僕は根本的に変わった。

そして、過去の記憶もかなり薄くなっている。

これからの僕の人生はほぼノープランだ。